同じことを、何度も考えている。考えるほど、同じところに戻ってくる。そんなときが、私にもあります。
そんなとき私は、答えを急ぐより先に、問いの立て方を変えてみることにしています。
聞けば聞くほど、自分の判断軸が薄くなっていく気がする。この記事は、そんな人に向けて書いています。
この企画の名前は、「常識破りのクリティカル・シンキング」です。常識破りと聞くと、人と違うことをする、奇抜なことをする、という印象があるかもしれません。
けれど、私が破りたいのは、世の中の常識ではありません。自分の中の固定概念のほうです。
- 常識破りとは、自分の固定概念を破ることだということ
- 堂々めぐりが、なぜ起きるのか
- 私が実際にやってきた、3つの疑い方(自分を測る/会社を真逆から見る/届かなかった経験を見直す)
- 自分の常識を破るための、7つの問い
- 明日、ひとつだけ試せること
ここで書くのは、考え方の話です。病気や治療の話ではありません。
常識破りは、自分の固定概念を破ること
常識破りは、世の中の常識に逆らうことではありません。誰かを批判することでも、変わったことをして目立つことでもありません。
常識を破るというのは、常識から逸脱することではないのです。
どれだけ常識を破ったとしても、他人を批判するものであってはいけません。人格を否定することも、差別することも、絶対にやってはいけないと思っています。
当たり前だと思った瞬間に、突破口が消える
私が気になるのは、「一般的にはこうだから」と、当たり前だと思ってしまう瞬間です。
当たり前だと思い込むと、行動経済学でいうバイアスがかかります。判断の突破口が、見えなくなる。
しかも、自分ひとりで考えていると、視野がだんだん狭くなります。
私にも、固定概念がありました
管理職になりたてのころ、私は自分が偉くなった気になっていました。
管理職は、上か下かの話ではなく、責任がどこにあるかの話です。いま振り返ると、「偉い」の定義が、間違っていたのだと思います。
固定概念は、自分では、固定概念だと分からないものです。だから、自分の常識の型を、自分で破る。それが、この企画でいう常識破りです。
一度、仮置きに戻す
世の中で当然とされている前提を、いったん外してみる。その前提が変わったときに、何が見えるのかを探す。
ここでいうクリティカル・シンキングは、誰かを批判することではありません。「それは本当にそうなのか」「何を前提にしているのか」「別の立場から見たらどう見えるのか」と、問い直すことです。
常識を壊すことが、目的ではありません。常識を一度仮置きに戻し、それでも残したいものと、自分には必要のないものを選び直す。そこまでが、常識破りだと思うのです。
私は、以前Xにこう書きました。
『常識を疑う』これがスキルなのかなっと思う。
スキルだとしたら、使い方があるはずです。この記事では、私が実際にやってきた疑い方を3つ書き、そこから取り出した問いを、最後に7つにまとめます。
同じところを回るとき、頭の中で起きていること
イメージできないと、不安になる
不安は、予測できないことから生まれる。私は、そう思っています。
明日どうなるかが分かれば、人はそんなに不安にはなりません。イメージできないものが、怖いのです。
独学でWordPressを触ってきた私にも、覚えがあります。怖いのは、壊れることそのものより、戻し方が分からないことでした。
戻し方が分かっていれば、同じ作業でも、怖さはずっと小さくなります。イメージできないと、仮説よりも、悪い想像のほうがふくらんでしまうのです。
「絶対こうだ」に支配される
人は、本来、予測ができる生き物です。ただ、視野が狭くなると、その力がうまく働きません。
最初は、「こうかもしれない」でした。それを思い続けているうちに、「絶対こうだ」「こうじゃなきゃダメだ」に変わっていきます。
頭の中の物語が、一つしかなくなる。ほかのルートが、見えなくなる。
それが不安な材料だと、頭の中でぐるぐる回り始めます。これが、堂々めぐりです。
一つの物語 + 「絶対こうだ」 = ほかのルートが見えない
誰にでも起こること
同じことを繰り返し考えてしまう状態を、反芻思考と呼ぶことがあります。私も、反芻します。
ただ、これは病気の話ではありません。人間なら、誰にでもあることだと、私は思っています。堂々めぐりになるのは、人間だからです。
問題があるとすれば、起きていることに気づけないことです。認識できていれば、そこまで恐れることはありません。
気づいた瞬間の変化を、私はこう表しています。
「これは反芻だ」と気づいた瞬間、あなたはすでに一歩外側に立っています。
気づくことについては、「認識」の記事に詳しく書きました。
「突破口になるまでの間」に、何ができるか
堂々めぐりに気づいても、すぐに答えが出るとは限りません。見えるようになったからといって、問題が解決するわけではないのです。
認識は、ゴールではなく、動くための入口です。そのあいだに、何ができるか。
私が作りたいのは、その「突破口になるまでの間」のものです。答えを渡すものではありません。別の見方に触れる、きっかけを作るものです。
一つの物語 → 堂々めぐり → 気づく → 別の問いに触れる → 全体が見える → 動く
別の視点は、自分の殻の中からは出てこない
殻の中では、できない
堂々めぐりを抜けるには、別の視点が要ります。「この可能性もあるかもしれない」と、考えてみることです。
ところが、自分の常識の殻にこもっていると、それができません。
だから、いろんな質問があったほうがいい、と私は思っています。自分ひとりでは出てこない問いに、触れる必要があるからです。
外からの一言で、自分が見えた
私は、ストレングスファインダーの認定コーチ4人と、それぞれ話したことがあります。4人とも、言うことは違いました。
それでも、共通していたことがあります。気づきを与えてくれたことです。
「あなたは、こういう人間ですよ」と言われたわけではありません。「あ、自分って、こういうものなんだ」と、私のほうが思えたのです。自分では見えない自分のパターンは、外からの視点が入ると、見えることがあります。
思考にも、手癖がある
思考にも、音楽でいう手癖のようなものがあります。
弾き慣れたフレーズに、指が勝手に戻っていく。考え慣れた道筋に、頭が勝手に戻っていく。
手癖は、悪者ではありません。ただ、そこから出られないと、同じ曲ばかりになってしまいます。
全体が見えると、楽になる
「こういう可能性もある」といろいろ考えると、全体を、相対的に見られるようになります。
すると、気持ちが楽になります。行動にもつながります。
ここからは、私が実際にやってきた3つの疑い方を書きます。どれも、うまくいった話というより、途中の記録です。
疑い方1 自分の「型」を、月に1回、測っていた
自分を、実験の対象にする
自分の頭の中は、自分にも見えません。だから私は、自分を、実験の対象にしてきました。
実際に、自分の行動を数えたこともあります。ある作業の中で、自分の行動を分析の対象にしてみたら、42個の判断と動作をしていました。
『超客観力』という本があります。この本を使って見えるようになったことを、以前こう書きました。
この本を使って見えるようになったのは、知らないことは悪ではなく、疑問を持たないことの方が危うい ということです。
「分かっている側」に立とうとしていた
昔の私は、そうではありませんでした。ビジネス書を読みあさり、その内容を人に話すことで、「分かっている側」に立とうとしていました。
「エビデンスは?」と、得意げに口にしていた時期もあります。いま振り返れば、それは客観に見えて、ただ他人の情報を借りていただけでした。
いまは、自分が正しいと思った瞬間を、いちばん疑うようにしています。
自分が正しいと思った時点で傲慢になるし、常に自分を疑い続けて学ぶ方が気づけることはたくさんある。
36か月、続けた記録
先日、昔のバックアップの中から、自己診断の記録帳が見つかりました。知的な謙遜を測る診断を、月に1回、続けていた記録です。
2019年12月から2022年11月まで、36か月連続。半年ほど空いて、2023年6月に1回。合わせて37回でした。
私にとって、知的な謙虚さとは、こういうことです。
私にとって知的な謙虚さとは、頭を下げることではない。自分にまだ見えていないものがあると認めて、学び続けるための態度だ。
結果は5点満点で、A、B、C、Dの4つの得点が出ます。質問は私が作ったものではないので、ここには載せません。
37回の平均は、Aが4.3、Bが3.9、Cが3.6、Dが3.4でした。年ごとの平均は、次のとおりです。
| 年 | 回数 | A | B | C | D |
|---|---|---|---|---|---|
| 2019(12月のみ) | 1 | 3.20 | 4.00 | 3.50 | 3.60 |
| 2020 | 12 | 4.15 | 4.02 | 3.38 | 3.60 |
| 2021 | 12 | 4.47 | 3.77 | 3.65 | 3.16 |
| 2022(1〜11月) | 11 | 4.36 | 3.89 | 3.65 | 3.29 |
| 2023(6月のみ) | 1 | 4.00 | 4.20 | 3.70 | 3.50 |
数字より、ぶれを見る
数字そのものより、私が目を留めたのは、月ごとのぶれです。
Dは、低い月が2.3(2021年の6月と8月)、高い月が4.3(2020年9月)でした。Aも、3.2から5.0まで動いています。
同じ私が、同じ診断に答えて、これだけ動くのです。点数が上がった理由も、下がった理由も、この表からは分かりません。だから、点数の変化を、何かが良くなった証拠だとは言いません。
型は、固定ではないのかもしれない
月によって、これだけ動く。だとすれば、「私はこういう人間だ」と早く決めてしまうのは、もったいないのかもしれません。
実際、診断の結果が、動く理由ではなく、動かない理由になっていたことがあります。「私はこういう人間だから」という一文が、可能性を広げる道具ではなく、選択肢を閉じる言い訳になっていました。
自分を知るのはいいことだ。これも、一つの常識でした。
自己理解は、動くものです。情報が増えれば変わり、経験が積まれれば更新されます。
ただ、動かないものもあります。ストレングスファインダーを2回受けたとき、1位と2位は変わりませんでした。
変わったところと、変わらなかったところを、分けて見る。診断の結果も、一つの具体です。束ねて見たときに、初めて自分のパターンが分かります。
反芻のほうは
同じ記録帳には、同じことを繰り返し考えてしまう傾向を見るシートも入っています。
測るための物差しがある。それだけで、これは特別な悩みではなく、誰にでもあることなのだと分かります。
実際に記録した、という事実
この記録から、私が言えることは一つだけです。自分を客観的な材料として見ることを、実際にやっていた。それだけです。
本は、読むより使っています。
本から行動を取り出すことについては、別の企画「読書からアクションプランを抽出せよ!」で書いています。
この話から取り出した問い
「私はこういう人間だ」は、本当にそうなのか?
疑い方2 会社の「当たり前」を、真逆から疑った
株式会社を、やっていました
私は、長く管理職をしていました。会社員としては部長職まで、自分の会社では社長も経験しています。
その会社は、一度、うまくいきませんでした。たとえば、役員報酬が払えませんでした。
いまは、休眠にしています。清算はしていません。
当たり前を、全部疑う
会社は、売上を上げる。必要なら、借入をする。株式会社は、利益を追求する。
どれも、当たり前とされていることです。
私は、それを全部疑ってみました。真逆だったら、どうなるか。
思考が止まったとき、私が自分に投げる問いでもあります。原因の「真逆」を疑ったら、何が見えるか。
役員報酬はゼロ。借入もしない。売上もない前提で、別のスキームはないか。
そう考えてみたのです。
立場を分けて、分解する
立場を分けて、一つずつ分解して見る。すると、新しい道筋が見えてくることがありました。
経営者と従業員でも、立っている場所が違えば、見えている事情は違います。その違いを分けて考えると、一つの結論に飛びつかずにすみます。
「株式会社は利益を追求するもの」という常識は、抽象的です。壊して、具体に戻す。
役員報酬は。借入は。売上は。
土台まで分解して、組み立て直す。第一原理思考と呼ばれる考え方に、近いのかもしれません。
「こういうやり方も面白いかも」が、突破口
株式会社が利益を追求するのは当然、という常識があります。でも、必ずしもそうでなくていい。
「こういうやり方も面白いかもしれない」と思えること。それ自体が、常識を疑うことであり、突破口になる。私は、そう考えています。
会社の常識も、一度、仮置きに戻しました。そのうえで、それでも残したいものと、自分には必要のないものを、選び直す。
壊して終わりにするのではなく、選び直すところまでが、常識を疑うということだと思っています。
道半ば
この先どうするかは、いまも道半ばです。
これは、会社のやり方を勧める話ではありません。常識を疑ったとき、私がどう動いたかの記録です。金額は、ここには書きません。
この話から取り出した問い
真逆だったら、どうなるか? 立場を分けたら、どう見えるか?
疑い方3 企業から頼まれて、話した日のこと
届けたかったのは、考え方の土台
私は、企業から頼まれて、セミナーでお話をしたことがあります。BtoBの場でした。
相手の名前は出しません。事実だけを書きます。
私がやろうとしていたのは、考え方の土台を伝えることでした。
けれど、その内容は、あまり必要とされませんでした。求められたのは、すぐに使える形のもののほうでした。
持っていることと、届くことは別
伝えたいことを持っていることと、それが届くことは、別の話でした。
そこで、求められたものを足して、講座の形にするのはやめました。最初の目的と、いま求められているものが、重なっているかを見直したからです。
順番を変えた
そこから、順番を変えることにしました。読んでもらうだけの話にせず、手を動かせるものを渡す。いま作っている問いの資料は、そのための形です。
このときのことは、実践の記録として、別のサイトに書いています。
うまくいかなかったことも、記録に残すと、次の問いになります。
この話から取り出した問い
最初の目的と、いま求められているものは、重なっているか?
自分の常識を破る、7つの問い
3つの疑い方には、共通することがあります。答えを探す前に、問いの角度を変えていることです。
常識を破るには、問いが要ります。しかも、自分では思いつかない角度の問いが。
私の記録や、これまで書いてきたものから、問いを7つ取り出しました。どれも、難しい道具ではありません。
問い1 それは、本当にそうなのか?
いちばん基本の問いです。「何を前提にしているのか」と、言い換えてもかまいません。
たとえば、「成功とは何か」「普通とは何か」「働くとは何か」「成長とは何か」「競争することは本当に必要なのか」。普段は前提として扱われやすい言葉ほど、この問いを当てる価値があります。
「私はこういう人間だ」も、「会社は売上を上げるもの」も、前提です。前提は、悪いものではありません。
ただ、前提だと気づかないまま、結論にしてしまうことがあるのです。
問い2 真逆だったら、どうなるか?
思考が止まったときに、私が自分に投げる問いです。原因の「真逆」を疑ったら、何が見えるか。
会社の話でいえば、「売上を上げる」の真逆は、「売上がない前提」でした。
真逆は、そのまま採用するためのものではありません。ふだん見ていない側を、照らすためのものです。
問い3 縄文時代の人なら、どう考えるか?
問いの角度を、時代ごと変えてみます。「縄文時代の人なら、これをどう考えるだろう」と。
普通は、そんなことを聞きません。だから、常識破りなのです。
芸人のネタのように、ありそうで、少し斜め上の角度から問いをかける。手癖になった考え方から、いったん外に出るための問いです。
ただし、意外な問いを立てること自体が、目的ではありません。同じところをぐるぐる回っているとき、そこから出るための手段です。
問い4 目的で言い直すと、何になるか?
道具でも、同じことができます。「〇〇を使う」ではなく、「〇〇を、〇〇の目的で使う」と、定義し直してみるのです。
たとえば、メモアプリを、メモアプリとして使わない。「次にすることを決める場所」として使うなら、記録だけでなく、次の一手を残すようになります。
目的が変われば、残す内容も変わります。名前に引っぱられず、目的で道具を定義し直す。私は、これこそがクリティカル・シンキングだと考えています。
目的を、はしごに例えることもあります。これから登ろうとしているはしごが、本当に正しい場所に立てかけてあるか。まず、そこを問うところから始めます。
問い5 反対の意見は、何と言っているか?
自分の考え方が間違っているかもしれない、と思ったときは、自分とは反対の意見を聞きます。
私は、本に書いてあることにも、批判的な意見がないかを探します。Xで調べものをするときも、あえて否定的な声を集めます。
成功した人の話ばかり聞いていると、直観的に、そちらへ引っぱられてしまうからです。手順にすると、こうなります。
- 自分の意見を、一文で書く
- 反対の意見を探して、書く
- 両方の主張・根拠・条件を分けて比べる
- 比べて浮かび上がったものを、書く
反対の意見を出して、終わりにはしません。複数の立場を並べて、それぞれが成り立つ条件を考えます。
正義は一つではありません。ふたつの正義が衝突したとき、どちらも正しい。どちらも間違っていない。
もちろん、悪いことを擁護したり、勧めたりする話ではありません。良し悪しを二つに分ける前に、一度フラットに見て、本当の目的は何かを考えたいのです。
相手の考えは、まず受け止める。それはそれ、そうなんだ、そういうふうに思っているんだ、と。
そのうえで、自分は違うな、と思ったら、合わせるのではなく、自分の判断軸で選びます。
問い6 分けたら、どこが動かせて、どこが余りか?
不安は、分からないことがひとかたまりになっているときに、大きくなります。
だから、まず不安なことを、一つ書きます。次に、その中の「分からないこと」を、書き出して分けます。分けただけで、調べることや聞くことが選びやすくなります。
悩みを、割り算のように分けて見ることもあります。そうすると、自分で動かせる部分と、いまは動かせない部分が見えてきます。
私は、その残る部分を「余り」と呼んでいます。動ける部分は動けばいい。余りは、無理に消そうとしなくていいのです。
問い7 どの文脈なら、成り立つのか?
たとえば「年収が高い方が成功」という物差しがあったとします。その物差しは、どの文脈では有効なのか。
健康、時間、家族、創造性、自律性など、別の軸を加えたらどうなるのか。そもそも、成功を一つの尺度で測る必要があるのか。
前提を変えると、同じ現実から、別の選択肢が見えてきます。
誰かの常識は誰かの非常識だし、誰かの非常識は誰かの常識。
常識は、人によって違います。だから私は、常識を抽象的なものだと考えています。
抽象的なままでは、使えません。一度壊して、新しい見方を具体に戻すのです。
有名なだまし絵があります。老婆に見える人もいれば、若い人に見える人もいる。見え方は、その人次第です。
大事なのは、見えたものを、どう判断して、どう決めるか。自分がどう選んで納得したか、の話だと思っています。
最後に考えたいのは、「誰が正しいか」ではありません。「自分はどの前提を採用し、その結果を引き受けるのか」です。
多様性とは、すべてを同じにすることではありません。異なる価値観がある状態で、それでも自分の判断を持つこと。そこに、個人哲学が生まれるのだと思うのです。
7つの問いを、1枚に
| 問い | こんなときに |
|---|---|
| 1 それは、本当にそうなのか? | 「当たり前」が出てきたとき |
| 2 真逆だったら、どうなるか? | 考えが止まったとき |
| 3 縄文時代の人なら、どう考えるか? | 同じ道筋に戻ってしまうとき |
| 4 目的で言い直すと、何になるか? | 名前や役割に引っぱられているとき |
| 5 反対の意見は、何と言っているか? | 自分が正しいと思ったとき |
| 6 分けたら、どこが動かせて、どこが余りか? | 不安がひとかたまりのとき |
| 7 どの文脈なら、成り立つのか? | 物差しが一つしかないとき |
全部を使う必要はありません。一つ当ててみて、景色が変わらなければ、次の問いに替える。それくらいの使い方で、十分だと思っています。
問いを、自分で作るための資料
思考OS25と、100の質問
この7つの問いの先に、もう少し大きな資料を作っています。質問の質を上げるための「思考OS25」と、100の質問です。
この資料の目的は、三つです。
- 考え方を知ってもらうこと
- 実際に使ってもらうこと
- 作ったものを、自分の言葉で説明できるようになること
読み物ではなく、行動してなんぼだと思っています。
思考OS25は、5つと5つを組み合わせた、25の場所の地図です。それぞれの場所に4つの問いを置くと、100問になります。
ただ、25という数も、OSという名前も、一つの定義にすぎません。唯一の正解ではありません。
大事なのは、数ではなく、作り方です。5つを考える。もう5つを考える。
掛け合わせて25にする。それを4倍して、100にする。
5つ × 5つ = 25の場所 → 25 × 4つの問い = 100問
構造は、誰でも作れます。
答えを持つことと、作り方を知ることは別
35×72を、計算機はすぐに計算します。人は、途中の式を書きながら計算します。答えを持っていることと、計算のしかたを知っていることは、別です。
自分が本当に分かっているかは、イメージで説明できるかで確かめられます。3×3と聞いて、9と答える人は多いでしょう。では、これをイメージで説明してください、と言われたらどうでしょう。
私なら、用意された9枚のカードを、3つの袋に3枚ずつ詰めます。
私の場合、説明できないものは、作ることもできませんでした。どうしても作りたかったサイトを、一度で作れないか試したことがあります。結果は、だめでした。
分からなかったとしても、どうやって聞けば分かるようになるか。その分解が、問いの役目だと思っています。
答えは、道具が出してくれます。でも、自分が何を作りたいかまでは、道具は作ってくれません。
配りません。持っていってください
だから、魚、つまり問いの資料は、お渡しします。釣り方、つまり作り方も、お見せします。むしろ、持っていってもらったほうが、うれしいのです。
問いは、もらうものではなく、自分で作るものだと、私は思っています。
資料は、配って登録してもらう形にはしません。メールアドレスも、いりません。できあがったら、使いたい問いを自分で選んで、PDFにして持っていけるようにします。
結果は保証できません。どう使うかは、使う人が決めます。使っている道具に組み込んで、自分の突破口を見つけるための質問として、自由に使ってください。
昔の5つの問いも、試してみる
以前のサイトに、私は5つの問いを書きました。自己理解が天井になる日、答えを先に見ることはずるいか、という問いです。
それらを、いまの資料に当てはめられるかどうかは、実際にやる場面で試さないと分かりません。試す価値はある、と思っています。
同じ運営者の別のサイトには、実際にやってみた記録を置いています。どちらから来ても、どちらにも行けるようにしています。
持ち帰り|「いつもは、こう。でも、別のやり方もありえるのでは」
私が持ち帰ってほしい一言は、「常識を疑え」です。ただし、他人の常識を、ではありません。自分の常識を、です。
自分の常識にとらわれすぎると、視野狭窄になりすぎます。そうなる前に、こう問います。
「いつもは、___。でも、別のやり方もありえるのでは?」
疑わないものも、あります
社会のルールには、成立した理由があることが多いものです。法律、安全、権利、科学的事実まで、「自分の哲学だから」で相対化するものではありません。
逆張りを目的にもしません。一般論だから間違い、少数派だから正しい、という構図にも持ち込みません。
異なる価値観があることを認めたうえで、それぞれの前提、根拠、結果を考える。批判とは、否定ではなく、検討することです。
壊すために疑うのではなく、自分で採用するために疑う。
構造的フロネーシスとの関係
この企画は、構造的フロネーシスに「前提を問い直す力」を渡す役です。
構造的フロネーシスが、自分なりの判断をつくる考え方だとすれば、その判断の材料になっている前提そのものも、点検する必要があります。
目的は誰が決めたのか。比べる軸は合っているのか。
この言葉を、どう定義しているのか。別の文脈なら、結論は変わらないか。
そうした問いを繰り返すことで、借り物の価値観ではなく、自分で理由を説明できる価値観へ近づいていく。私は、そう考えています。
構造的フロネーシスの全体は、構造的フロネーシス(総論)に書いています。
常識を疑うのは、何のためか
常識を疑うのは、誰かに勝つためではありません。誰かを下げるためでもありません。
受け止めて、合わせずに、自分の判断軸で選べる状態になるため。生きやすくするために、中立に捉えるためのレンズが必要なのだと、私は思っています。
常識を破るとは、自分の固定概念を破ること。壊すためではなく、自分で選び直すために疑う。
あなたがいま、「いつもはこう」と思っていることは、何ですか。別のやり方がありえるとしたら、どんなやり方でしょう。
- 明日、いつもやっていることを一つ選びます。
- 「いつもは、こう。でも、別のやり方もありえるのでは?」と、一行だけ書きます。
- 7つの問いのうち、一つだけ当ててみます。採用するかどうかは、あとで自分で決めます。

